TOPCON CLUB(トプコンクラブ)〜トプコンよもやま話12
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東京光学は設立当初は日本光学と同様に軍需目的の光学レンズを主に生産するメーカーであった。当然色々なカメラメーカーにレンズを卸していたが、民間用カメラも意外と早く自社で開発しており、実際30年代には、ほとんど試作機同然だったロードとは別にミニヨンI型を生産していた。しかし、当時の東京光学の面目躍如たるレンズはやはり帝国陸軍用に作られた様々な軍事光学兵器用のレンズに見られ、当時の民間用カメラにはその実力を100%使ったものは見られない。戦後カメラメーカー各社が好景気に沸く日本の経済事情に比例して、どんどん優れたカメラを開発していく中、東京光学もまたいくつもの優秀なカメラを残していくことになったが、やはりレオタックスに卸していたLマウントシムラー・トプコールのように、レンズの面でも戦前から一目置かれていた大手光学メーカーとしての実力を遺憾なく発揮していた。これは50年代後半のトプコンRの時代以降、東京光学がより一層カメラ産業に力を入れるようになって、その実力を華々しくアピールすることになった。多くのトプコン党員の皆さんは、その時代以降のトプコールレンズの素晴らしさに惚れ込んで長らくトプコンを愛用してきたのであろう。ここでは、そうした一眼レフ用トプコールの内でも、最もシビアな描写が求められた標準レンズ各種について話を進めて行きたいと思う。 |
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57年のトプコンRから始まった東京光学の一眼レフの歴史であるが、81年に撤退が決まり、試作機のトプコンAM-1も日の目を見ないまま設計図が下請けのシィーマに譲渡され、そこからシムコLS-1として生まれ変わって世に出たのは前に「よもやま話8」でお話した通りである。しかし、こうして標準レンズの変遷を見るだけでも、トプコンの苦しい戦いが見られるようで、改めて興味深いものになった。 そもそも東京光学は、優秀な光学メーカーとして長らく認知され、世界初の機構をいくつも開発してきたのに、どうして70年代に急に失速したのか。それはよくEXマウントの問題だと言われてきたが、実は中級機の失敗にあると私は思っている。REスーパーはシステムカメラとしての存在感と完成されたイメージが確かに60年代にあった。そこでトプコンRE-2を出して中級層を狙ったのだが、出たばかりのコパルスクェアを採用したことが問題だったのではないか。これによって、中途半端な大きさと、シャッターダイアルが前に突き出て、反対に従来からの特徴だった前面シャッターボタンも崩れ、のっぺりとした軍艦部に移ってしまいちょっとちぐはぐになっていたが、これを単にREスーパーを小さくしてファインダーを非交換式にして使い勝手を良くしていれば、もっと売れて然るべきカメラになっていたはずである。そこから小変更を重ね、オート化、自動巻き上げ化へと進める道を開くべきだったと思うが、当時の東京光学はこれをUVマウントに求めてしまった。しかし、ユニレックスのすっきりしたデザインをREマウントで行なっていたら、これまた一層売れたに違いない。その上でマウントの口径アップや、熟成の進んだコパルスクェアシャッターの利用を後日考えれば良かった訳で、結果として60年代後半から70年代前半にかけて中級層の心をつかめなかったのが一番の原因なのではないだろうか。そこそこの売り上げがあって、新規に開発する財政的な土台があれば、優秀な人材を多数抱えていた東京光学では、きっと良いカメラをもっともっと作ることができたはずだけに、AM-1の基本的な発想は、IC-1オート開発の際にREマウントで実行されるべきものだったと私は今でも考えているが、それもUVマウントユーザーの切り捨てがあって実行できるものである。これを行なわず、それまでのユーザーを大切にした東京光学の姿勢には、今なお頭が下がる思いである。 |